「遅くまで、お邪魔しました」
そろそろ6時だ。辺りはすっかり暗くなっている。
雨はもう止んでいた。
「いえいえ、こちらも全然お力になれなくて、本当、どうお詫びしていいか…」
さっきから珪子の母親は私に頭を下げっぱなしだ。
ここまで礼儀正しいと私の対応にも何か無礼があってはいけないと、少々固くなってきてしまう。
「そんな…謝らないで下さい。元を正せばこれは私個人のことなのに…助力を頼んだのは私ですから」
「それだけに、お力になれないと自分の至らなさを痛感しておるのです」
「いえ…そのお気持ち、本当にありがとうございます。きっとこの調子でいけばなにか分かるでしょう。
私も、帰って育ての親の日記などないかを探してみることにします」
「育ての親…?」
ここで初めて、珪子の母親の顔が上がった。
「ええ。父親が死んだ時、私にそう言い残しました。私は本当は死んだあの両親の子供じゃないって」
「…そうでしたか…」
珪子の母親は視線を再び落とす。
「だから、本当の両親を探したいんです…その手がかりがもしかしたらこの悪夢にかかわりがあるのかも
しれないと思ってます」
「…」
「…?どうかされましたか?」
珪子の母親はずっと下を向いたままだった。
「…ああ、ごめんなさいね。あまりに唐突だったんで。生命を失うと言う言葉はいつ聞いても不吉な予感を
背筋に走らせるものです」
そう言って、彼女は再び顔を上げる。
「それでは…またなにか分かったことがあったらこちらからも随時連絡いたしますので」
「お心遣い、ありがとうございます。それじゃ、失礼しますね」
そう言って私は玄関を出た。
「お気をつけて…」
そう一言残し、珪子の母親は見えなくなるまで玄関の前で見守ってくれた。
今日は買い物の必要はない。
まっすぐ家に帰ろう…。
「綾乃は?」
「今帰られたところよ。どうしたの?」
「いや…私の頭の中に…あの時の綾乃が焼きついてて…それに綾乃、今、自分の親のこと…」
「…聞いてたのね」
「ごめんなさい…でも…綾乃がどうしても心配だったから…私の知ってる綾乃じゃなくなったらどうしようって…」
「…珪子、ちょっといい?」
「…?なに?」
「綾乃さん…実はね…」
どうして、私はこんなところまで来てしまったんだろう。
私は自分の家の前を通りすぎ、一昨日に来た公園の前に立っていた。
左手にはホットの缶のスープを持っている。
何も考えていないにも程がある。
意識を失っているくらいぼうっとしていたんだろうか。
いや、ちゃんと意識はあった。
そのうえで、ここに来た。
…なんのために?
…分からない。
そのまま、私はブランコに腰掛ける。
前にここに座った時よりも明らかに低い位置だった。
きっとあの時は鎖を上の鉄柱に巻きつけて高くしてあったのだろう。
左のブランコは、今朝の雨のせいか足もとの窪みに泥水が溜まっている。
それは公園の別の遊具にしても同じで、ジャングルジムだって濡れた後があるし、砂場もいつもの黄土色ではなく
今日は土色を帯びている。
私は何も考えずに缶スープのノブを開け、中身をゆっくりと飲む。
…。
一昨日よりはかなり早い時間だが車の通りは少なく、時折電車の通過音とそれに伴う踏み切りの警報音が
聞こえるだけだ。
私はここで、なにをしているんだろう。
…待っている。
なにかを待っているんだろう。
…誰を。
…。
多分、あいつが来るのを。
…馬鹿らしい。
こんなところで待っても意味などない。
むしろ、それなら住所なりなんなりで自宅を探した方が遥かに早いだろう。
…そうかもしれない。
そんなことを考えながら、間の中のスープを全て飲み干す。
空き缶にはしばらくスープの余熱が残っていたが、それも僅かな時間で失われていく。
きっと、今の私の周囲の空気は虚脱感でいっぱいだろう。
私自身、自分の一挙一動があまりにゆっくりしすぎていることを感じるから。
ふと視線を前にやると、ブランコの柵のちょうど真正面の外側にゴミ箱がある。
そして、その近くに、いつのまにかネコが1匹、うろついていた。
ノラネコなのか、私の方に近寄ってこようとはしない。
…ぽいっ。
ゴミ箱に向かって空き缶を投げる。
じゃりっ。
空き缶はゴミ箱の手前1メートルのところへ落下し、茶色い土の上に。
そしてネコはそれに驚いて逃げていく。
…空虚だ。
ここは、寒い。
それでも、今日は雨上がりで雲が覆っている分、いつもよりは暖かさもあるはずだし、まだ時間もそんなに遅くもない。
風も、今はぴたりとやんでおり、肌を刺すようないつものものは全く感じられない。
とすると、この寒さは虚脱感か…寂しさか…そのあたりから来るものだろうか。
一人でいること…。
もう、慣れたはずなのに…。
なんで、それがこんなに寒いんだろう…。
それに、このまま永久に一人じゃない。
明日はまた学校だし、そこでみんなと会う。
そこでまた、珪子や、和也や、佐伯さん達といつものようにくだらない会話をして…。
そうやって1日を過ごす。
なのに…今はそれすらが遠い世界のことのように感じて…。
今、ここに誰かがいないと不安でしょうがなくて…。
今、ここに誰かがいるほうが当たり前なんじゃないかと誤解してしまいそうになって…。
そして、ブランコに腰掛けたまま、少しだけ泣いた。
ぽつっ…ぽつっ。
そのうちに、雨が再び降って来た。
私はブランコから動かない。
ただ、投げ捨てられたままの空き缶をずっと眺めていた。
「…ポイ捨てはよくないな」
…。
「で、綾乃、いつまでこんなところでボーっとしてるつもりだ?本降りにならないうちにさっさと帰ったほうがいいぞ」
「和也…」
それ以上の言葉は出てこなかった。
今、目の前に和也がいる。
それだけだった。
「…待ってたんだよ…」
「待ってたって、俺を?こんなとこで?」
「ずっと…待ってたんだよ…私…」
「…?綾乃…どうしたんだ?いつものお前らしくないじゃ…」
がばっ!
その時。
私は和也の胸に飛び込んだ。
もう、何を言っていいのかも分からない。
「私…怖かったんだよ…これから、ずっと一人ぼっちで…いるんじゃないかって…」
「…」
「それで…それで…いつものことが恋しくて…」
「…そんなに慌てなくてもいい。もうちょっと落ち着けよ」
「うう…」
「綾乃…俺にはなにがあったのかは知らないが、泣きたいなら思いっきり泣けばいい。思いっきり泣いたら少しは
すっきりするだろうからな」
「あぅ…」
「ほら、胸、貸してやるから」
「…ぅ…」
「…」
「うわあああああ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん!!!」
私は泣いていた。
もうめちゃくちゃに泣いていた。
何故泣いているのか、自分にも分からなかった。
ただ、不安を拭い去る…という効果はあったと思う。
和也が今、ここにいることに安心を感じたからだろうか。
どうにしても、和也のおかげだ。
今の私は、和也に心から感謝するとともに、自分がようやく冷静さと正常な判断力を取り戻してきたことに気付いた。
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