どこにでもある風景



 きーん、こーん、かーん、こーん…。
 午後2時30分。
 3時限目の授業の終了を告げる鐘の音だ。
「あ〜、んじゃ今日はこれで終わり。また来週続きしますんで」
 教授の適当な挨拶とともに、生徒達は足早に教室を後にする。
 長机が座っている人数と同じ回数、ガタガタと揺れる。
 仲間内でだべりながら、ゆっくり荷物を鞄に詰める奴。
 何が忙しいのか、終わったと同時に急ぎ足で出ていく奴。
 結局、時間ギリギリまで教室で資料の整理をしている教授。
 一瞬の喧騒…そして足音…再び、授業中とはさほど変わらぬ静寂。
 むしろ、授業中より静かなくらいだった。
「ん?君は…北條(ほうじょう)くん…だったかな?」
 教授が黒板の書き残しを消しながらこっちを向き、尋ねてくる。
 教授の声はさほど大きいわけでもないが、人のいない教室に
 響き渡るには充分だった。
 そう、俺と教授の2人だけの教室では。
「ああ…そうっすけど」
 俺は曖昧な返事をする。
「授業はとっくに終わってるが…出ていかないのかね?」
 教授は、さも出ていくのが当然のように俺に質問する。
 いや、むしろ教授の言い分のほうが当然だ。
「ええ…どうせここ、今日もう使わないっしょ?」
「まぁ、そうだが…」
 平然と答える俺と、言葉につまる教授。
「とりあえず、あまり遅くならんようにな」
 その一言だけを残し、黒板を消し終えた教授は教室から出ていった。
 残ったのは、俺1人。
 俺は長机に腰掛けなおし、肩掛け鞄を拾い上げ、再び何事もなかったように
 ぼーっとする。
 そう、それが俺の楽しみだから。

 きーん、こーん、かーん、こーん…。
 4時限目の授業の終了の鐘の音が鳴る。
 もっとも、今日の授業をすでに終わらせている俺には、時報以外の
 何の意味もないが。
 時計が指している時刻は午後4時10分。
 そろそろ、この空き教室も紅に染まりつつある。
 俺は何をするでもなく、そこにいた。
 大教室は窓が広い分、夕日の差し込みが厳しい。
 春の暖かさを感じるにはうってつけの場所だ。
 そんな中で、俺はただ、長机の上に座り、ぼけーっと時間が過ぎるのを満喫していた。
 それだけだ。別に、こんなことをする動機もない。
 強いて言うなら、家に帰っても特にすることがないし、街に
 出歩く気も起きなかったので…暇つぶしのため、と言おうか。
 いや、今は充分暇だから暇つぶしにはなってないな。
 暇を持て余すため、くらいにしておこう。
 暇を持て余せる大学生という身分は、やっぱし特権階級だよな…。
 そんなことも考えたりする。
 しかし、そろそろこれも日課になりつつある。
 もちろん、俺がこんなことをしてるのに賛成するような奴はいない。
 親や周りの人間…特に世話焼きな幼馴染の希(のぞみ)なんかはしきりに
 バイトしろとかうるさい。
 まぁ、当然俺も貧乏学生だから金が欲しいわけで…。
 そうなってくると当然バイトを探すはめにならざるをえないんだが…。
 それでも、俺はこうやってグータラしてるのが性に合っている。
 加えて、こういう雰囲気が俺は好きだ。
 なんというか、言葉では表せないような…暖かな雰囲気。
 夕焼けの朱が生み出す、熟したみかんのような橙色の雰囲気。
 欠点があるとすれば、俺一人しかいないのが若干寒さをかもし出して
 いる、ってとこか。
 しかし、1人で夕焼けにたそがれてる…青春気取ってるよな、俺。
 ガラガラッ!
 突如、閉まるときだけ自動のドアが開く音が響きわたる。
「ちょっと! 克哉(かつや)!」
 おっとっと…。
 続いて無人の大教室に響きわたるのは威勢のいい女の声。
 と同時に、俺は1人のほうが雰囲気的に良かった、とさっきの発想を
 訂正する。
 今の声は明らかに雰囲気ぶち壊しだ。
「あんた、またこんなとこにいたのね…」
 声の正体は…希か。まぁ、いつものことだが。
 こいつは勘がいいのか、いつも俺の居場所を見つけてきやがる。
 幼馴染というか、腐れ縁というか…。
 そういう関係なだけでここまで行動パターンを把握されてると、
 なんか少し嫌な気分だが。
「おぅ、希じゃねえか。授業はどうした?」
「あんた、耳腐ってるの?さっきのチャイムで終わりよ」
 希は、俺が腰掛けている机の前までわざわざやってくる。
「で、なにしにこんなとこまで来たんだよ?」
「どうせあんたがまたこんなとこで油売ってるんじゃないかってね。
 いい加減、ちゃんとバイトなりなんなりしたら?」
「別にいいじゃねえか、誰に迷惑かけてるわけでもねーだろ」
 いつもこの調子だ。いい加減ほっといてくれっつーに。
「ふぅん…よっぽどここが好きなのね」
「まぁな。春眠暁を覚えず…ここは、春の日差しが俺を眠りの境地へ
 誘ってくれるんだ」
「…ぷっ」
 希が突如、含み笑いをする。
「なんだよ…俺を馬鹿にしにきたのかお前わ?」
 俺は若干、語調を荒くして問いただす。
 少し腹が立った時は、自分でも変だと思うような喋り方になる。
 俺の悪い癖なのかもしれない。
「別にそうじゃないよ…私もこういうとこの雰囲気、好きだから」
 だが、希はそれに一切ひるまず、妙に真剣な表情になってそう答えた。
 2人だけの教室ではこんな何気ない会話も妙に響く。
 休憩時間の雑踏混じりの廊下とはえらい違いだ。
 そんな声よりも、俺が印象深く感じたのは、希の真剣そうな表情だった。
 その表情は…後ろの夕日に染まり、俺にはとても綺麗なものに見えた。
 …へ?
 いや、まさかな…。
 こいつが綺麗だったら、世の中の女はみんな、綺麗になっちまう…。
「ねぇ…」
「ん?」
 突然、希は机から立ちあがり、窓際に向かう。
「どこにでもある風景って…どんなのかな?」
「はぁ?」
「風景っていうか…どこにでもある日常っていうの? そういうやつ」
 また、突発的な…。
 俺にとって、もはや腐れ縁なこいつの未だに理解できない部分は、
 こういう、わけのわからんことをいきなり聞いてくることだ。
 相変わらず、妙に詩人気取ってるな、こいつは…。
 俺も、人のことは言えんかもしれんが。
「ねぇ…克哉はどんなのだと思う?」
 どんなのだと思うって聞かれてもなぁ…。
「なんだそりゃ…もうちょいなんか、具体的なもんはないのかよ」
 一概にどこにでもある風景、と言われても、あまりに抽象すぎる表現だろう。
 俺は何が恥ずかしいか、頭を掻きながらそう答えた。
「だーめ。そんなもの言っちゃったら、あんたの性格上、私の言ったこと全部
 復唱するだけだもの」
 なんだそりゃ。俺は幼稚園児かコピー機か?
「ったく、わけのわかんねぇ奴だ」
「それはお互い様よ。だいいち、これは国語の問題なんだから、
 数学なんかじゃなくて、答えは何通りでもあるでしょ?」
 いちいちうるせぇ…勘に触る奴だ…。
 ともあれ、俺は一応考えてみる。
 どこにでもある風景、ねぇ…。
「考えなきゃ出てこない?」
「うるせぇ、お前はちょっと黙ってろ」
 ったく、いきなり何の前触れもなしになんだってんだ…。
 …あ。
 なるほどな…。
 確かに、希の言うとおりだ。考えなくても答えは出てやがる…。
「ん? なにか思いついた?」
 俺の表情から察したのか、希が探りを入れてくる。
 結局、こいつの思い通りの展開になるのが悔しいが、俺は素直に答えた。
「どんなのも何もねえ。今の俺とお前だ」
「ほんとにそう思ってる?」
 間髪入れず、希のツッコミが入る。
「普通の学生は、授業が終わったらさっさと教室出ていって家に帰るなり、
 遊びに街へ行くなりバイトにいそしむなり…そういうものでしょ?」
「…そうだな。それもまたどこにでもある風景だ」
「結局、どっちなのよ」
 その時、不意に希は少し寂しげな顔をした。
 もちろん、俺はそれを見逃さなかった。
「極論、どっちもなんだろうな。」
「それじゃ答えになってないよ。いくつも同じ風景なんてないもの」
 こいつの言ってる意味が、少しずつ理解できてきた。
 誰の目から見ても見える平凡な日常、っていうのじゃなく、
 俺個人の考える、平凡な日常…こいつが聞きたいのは、そういうことか。
「なら、前者に決まってんだろーが」
「なんで?」
「俺は基本的にそういった生活面での『普通』ってのはどうでもいいんだよ。
 そういったものはたいがい心にゃ残らねぇからな」

 希が、その言葉に過敏に反応する。
 今度は俺の予想通りの展開だ。
「んじゃ、ぼーっとしてるのは心に残るの?」
「お前も耳が腐ってんじゃねーのか? 俺はさっき『今の俺とお前だ』って
 言ったはずだぜ」
「え…」
「確かに、1人でグータラこいてるだけじゃ、なんにもならねえかもしれねぇ。
 だが、こうやって、世話焼きなお前がいるだけで、何か心に残るものが
 できてくるだろ? それが、良いものか悪いものかは別にして、な」
「…あんたらしい考え方だね」
「お前もだろ、馬鹿」
 俺はわざと、悪態をついたような言い方をする。
 もちろん、このほうが効果があるのを見越しているからだ。
 こいつはなんでかしらないが、こういったほうがいい方向に理解してくれるんだよな…。
「…ん。そうだよね…!」
 少しだけ唇をかみしめ、僅かにこぼれかけた涙を拭い、希はそう一言だけ、答えた。
 …なんで泣いてるんだ、こいつ?
 そのまま、俺に背を向け、窓の外の風景に目をやる。
 希は窓の鍵に手をかけ、大きな窓を開ける。
 まだ少しひんやりとした風が、俺達の間を突き抜ける。
「みんな、部活とかやってるよね…これもまた風景でしょ?」
「まぁな。でも部活の練習の一つ一つはそう思い出にはならねぇ」
「…」
「でもな…こういうのは、割と一つ一つが心に残るだろ? 繰り返すようだけどよ」
 希は、無言のままだ。
「それとも、俺の描いた『どこにでもある日常』はインパクトが強すぎるか?」
「…ううん、そんなことない、そんなことないよ…絶対」
 希は珍しくも、妙に力強く答えを返してきた。
「ねぇ、克哉」
「うん?」
「来年も…再来年も…そのまた次も…同じようなことが言える?」
「たりめーだ」
 俺の言葉には、迷いは微塵もなかった。
 どれだけ時間が過ぎようが、そんなものは俺には一切関係ない。
 それが、俺の譲れない考え方だからだ。
「だよね…そうだよね…」
 窓から向き直った希の顔は、今までのどの希より一番いい笑顔だった。
 …こいつ…結構…。
 って、何考えてんだ、俺は!?
「克哉…来年も、ここにいてね、約束」
「なんでお前とそんな約束しなきゃなんねーんだよ、馬鹿」
「いいから! 約束なの!」
 …はぁ。
 弱いな、俺も。
「…はいはい…約束するよ、すればいいんだろ」
「もっとちゃんと約束するの!」
 こういうとこで一歩もひかないところは、こいつらしい所だな…。
 俺も、完全に尻に敷かれてやがる。
「おうよ、ちゃんと約束するぜ」
「それでよし!」
 その時に希が見せた悪戯っぽい笑みは、何故か俺の心を少し揺れ動かした。
 さっきの笑顔といい…なんだろうな、今の感情は…。
「今日だけ、特別に許したげる」
「…は?」
「ううん…なんか、私もこんなとこでぼーっとしてたくなっただけ」
 なんだこいつ…相変わらず理解不能だ…。
「綺麗だね…」
 希は俺の戸惑いも一向に気付かず、自分の世界に入っている。
「赤いね…何もかもが」
 ったく…ついさっきまで、俺がこうやってんの、否定してたくせに…。
「橙色だ」
「え?」
「赤っつーのは、どっちかってーと、不吉な色を表現することのほうが多いだろ?
 例えば…血とかな」
「あ…」
 希は大袈裟に、手をぽんと叩く。
「信号でも赤はダメだって意味で使うだろ? だから、これは橙色だ。
 熟したみかんのような、な」
「なるほどね…たしかに、みかんのような暖かさだもんね…」
「気に入ったか?」
「うん…あんたがここが好きだって理由…今なら分かるよ」
「そっか」
 調子のいい奴め…。
 まぁ、否定してたものを理解してくれてんだから、そう考えれば
 ありがたく思うべきなのかもな。
「ほんと、綺麗だね…」
「ああ…そうだな」
 俺は、何気に希のほうを向く。
 夕日に目を輝かせる希もまた、綺麗に見えた…。
 なんというか…目が離せないような…そういう雰囲気だった。
「でさ、克哉。いつまでここにいるつもり?」
「え? ああ…適当」
 突然、現実の世界に呼び戻される。
 思わず、俺は取り乱してしまった。
 あああ、俺らしくもねぇ…。
「なに? どうしたの?」
「なんでもねーよ」
「もしかして、なにかに見とれてた? ひょっとして私?」
 希がさっきとはまた違う悪戯っぽい笑みを見せる。
「なんで、そんな馬鹿なこと考えなきゃいけねーんだよ…そんな柄じゃねぇ」
「はいはい、そういうことにしといてあげる。貸しにしとくかんね」
「勝手に話進めてんじゃねぇ」
 ったく…結局いつも通りか…。
 なんか、ごまかされたような気がするけどな、まいっか。
「ん〜…でも、そろそろ帰ろっか? もう日が暮れちゃうよ」
「ああ…そうだな、帰るか」
 俺も、机から立ちあがり、右隣に無造作に置いておいた鞄を手に取る。
「窓、ちゃんと鍵かけとけよ」
「あ、そっか。忘れてた」
「おい…」

「克哉は、また明日もここにいるの?」
「さぁな…使ってる教室はここじゃねえかもよ」
 教室を後にしながらの会話。
 だべるには、余りにも遅い時間だ。
 俺達2人以外の人間はどこにも見当たらない。
「ふふ…それじゃ、また明日も探さなきゃいけないのよね」
「また…って、今日は探してたのか?」
「うん。でも今日なんかは3限一緒だったでしょ?あの時、妙にぼーっとしてたの
 横目で見えたから、ひょっとしたらここじゃないかなって思ったんだけど」
 俺達の声は、沈黙を続けていた校舎の中にむやみに響いた。
「なんだ、監視してたのかよ」
「大袈裟ねぇ…監視ってほどのことでもないでしょうに」
「いや、監視だ。お前は割といつでもすぐ俺を見つけるからな」
「あんたねぇ…私がどれだけ苦労してるか、知らないくせに…」
「じゃあ探すな、そのほうがよっぽど手間省けるぞ」
「…はぁ」
 希が溜息をつく。降参の合図だ。
「ようやく俺の勝ちか…今日は負けっぱなしだったからな」
「なんの話?」
「うんにゃ、こっちのことだ」
「? 変なの」
「気にするな、いつものことだ」
「まぁそうだけどね」
「ちょっとは否定しろ…」
 そんな他愛もない会話を校門の前まで続ける。
「そうそう、帰りにちょっと買い物していくから付き合ってよ。今日の晩御飯のおかず
 まだ決めてなかったからさぁ」
「おいおい…また荷物持ちかよ…勘弁してくれ」
 もちろん、それほど嫌ってわけでもなかったりする。
 俺もこの環境に慣れたし、なによりこの環境が好きだからだ。
「いいじゃない、家すぐ近所なんだから! ほら、行こっ! ついでにあのへんで
 バイトの募集がないかどうかも探しとかないとね」
「なんでそーなんだよ…だいたいさっき俺に共感してくれたろ?」
「たまにはいいと思うけどね! でもちゃんとお金自分で稼ぎなさいよ! あんたに
 いびられるのはもう散々だもの」
「いつ俺がお前の生活脅かすくらいいびった…」
「はいはい。言い訳は買い物が終わってから聞いてあげる!」
 やれやれ…。
 この調子じゃ、俺は在学中は少なくともずっと、こいつに振りまわされっぱなしだな…。
 そう心の中で思い、苦笑する。
 と同時に、『どこにでもある日常』の理想は、こういうのだと信じて疑わなかった。
 そして、この理想の『風景』が永遠に続きますように、とも。
 そんな、ある春の夕暮れ時だった。


文章展示室のトップに戻る〜。